カミカクシ 前編

―神隠し―

子供などが突然姿を消してしまい、人が痕跡もなく行方不明になる現象である。文字通り「神が隠した」という意味を持ち、超常的な怪事件扱いされている。

 行方不明と言われる事件。人が姿を消す。それは単に行方が知れないだけの蒸発という事も多い。また、何らかの事件に巻き込まれ、後に死体で発見される。あるいは、未だに発見されていない状態が続いている。そういった事も多いケースである。どういった形であれ、その人間はこの世のどこかに存在する。

しかし、もし「この世」でない「別の世界」に消えてしまったとしたら。それこそ、「神が隠した」と呼ぶにふさわしい神懸かりな現象ではないだろうか。

誰かが見ていないその時に、きっと…


地方のとある小さな町の事だった。日も傾き始める時分、チャイムの音が鳴り響く。小学校の教室である。

「それでは皆さん、気をつけて下校して下さい」

担任の教師が告げると同時に、教室は途端に慌ただしくなる。ランドセルを背負って一目散に教室を駆け出す者、友達とお喋りを始める者と多様だ。そんな中、一人ゆっくりと席を立つ少年がいる。

「帰るのか?良人」

「うん、さよなら」

彼は誰と帰る訳でもなく、一人昇降口を後にする。会話を弾ませながら下校する周囲の生徒達と比べれば、珍しい光景だった。

 良人は一軒家の玄関の前で立ち止まる。表札には「間(はざま)」と書かれていた。一呼吸置くと、彼は静かに玄関の引き戸に手をかけた。鍵はかかっていない。ガララ…と鈍い音を立てて戸が開く。

「ただいま…」

居間からはテレビの音が聞こえる。テレビの前のソファに、一人の女性が腰掛けている。テレビに夢中になっているらしく、良人の存在は気にとめてもいない。テレビの音だけが、家の中に響き渡っている。

「ただいま…母さん」

「ああ良人。帰ってたの」

良人が声をかけると、彼女はようやく反応した。振り向いて答えはしたものの、すぐに視線をテレビへと戻す。

「ああ良人、今日の晩ご飯、買ってきてないから。今から買ってきてくれる?」

「うん…」

良人はランドセルを背負ったまま、小さくうなずく。

「お金はいつもの所だから。」

ランドセルを置いた良人は、テレビ番組に没頭する母の姿をしばらく見つめたあと、家を出た。

買い物はすぐに済んだ。スーパーの買い物袋を手に持った良人は自宅へと帰っていた。彼の母は相変わらずテレビに夢中になっていた。

「母さん、買ってきたよ」

「ああ、ありがと。先に食べてて。母さんは後で食べるから」

テーブルの前には、食べかけの茶菓子が置いてあった。

「父さんは?」

「さあ…最近帰りが遅いみたいだから」

「…」

良人は無言で台所に向かい、スーパーで買った夕食を電子レンジに入れた。そしてそのまま自分の部屋に戻り、それを一人で食べた。それが、彼らの夕食であった。

 夕食の後、時計の針が八時を過ぎた頃だった。玄関の戸が力無く開く音が聞こえてきた。

「…ただいま」

しかし返事はない。良人の母親は相も変わらずテレビ番組に没頭していた。

「夕食…は?」

その声にようやく母は振り返る。その前に立っているのはスーツ姿の冴えない顔つきの男性。それが良人の父だった。

「あら、帰ってたの…気がつかなかったわ。台所のテーブルに良人が買ってきたのがあるから」

彼女はそれだけ言うと、再びテレビの方に視線を戻した。父はそのままゆっくりと台所へと歩いていき、テーブルの上の食品を眺めると、イスに座り食事を始めた。良人は、そんな両親の光景を部屋から黙って見ていた。彼は小さく息をつくと、半開きのドアをパタンと閉めた。

 時計の針は九時へとさしかかっていた。小学生なら、もはや寝るのが自然な時間である。良人は既に明日の準備を終え、静かにベッドに大の字で横たわる。

「ぼくは…本当に愛し合っている夫婦から産まれた子供なのか…?」

誰に向かう訳でもなく、良人はつぶやく。良人は自分の部屋を見回してみる。小学五年生の一人部屋に、テレビやゲーム、オーディオにパソコンまである。端から見れば歳不相応な最高の環境だろう。
だが良人はひどく憂鬱そうな顔で部屋を眺めていた。

 ぼく、間良人は夜の父母の光景を思い出す。自分の家は、両親に息子の三人家族だ。だが、ここは家族にとっての拠り所としての家なのだろうか。まるで、他人が一緒に暮らしているかの様だ。交流らしい交流もない、ただ、一緒に暮らしているというだけの家庭…。

 自慢じゃあないが、クラスでは勉強ができる方だ。先生や他の同級生の親にもよくほめられる。

「…『いい子』、か…」

良人は時折考える。自分の名前、リョウトという名前について。良い人、『リョウト』。彼はこの名前をあまり気に入っていなかった。正直安直な名前だと思っていた。

「ぼくは、どこにいたらいいんだろう…」

急に良人を睡魔が襲った。瞼が下がっていく。…電気を消さないと…良人は薄れゆく意識で思っていた。

良人はそのまま眠りに落ちていった。


意識が浅い。

ぼくは眠っているのか?起きているのか?よくわからない。

あれは何だ?この景色は…ぼくの家。

ぼくの通学路。ぼくの学校。ぼくの町。

ここは…商店街か。何やら、車に乗っているようだ。

………何だ?この町の人達の表情は…。

こっちを見ている。驚いている。

…走り出した。音はない。無音だ。

だが何となくわかる。…視界が大きく揺れた。

次の瞬間見た映像は…座席に座る血まみれのドライバーの姿だった。

視界がテレビの砂嵐のようにチラつく。

!?車内のミラーに一瞬何かが…

何だ!?あの…黒いものは…。

黒っぽい、四本足の生き物…いや、生き物だろうか?

それは怪物だった。

怪物としか形容のしようがなかった。

その映像は、テレビのスイッチを切るかの様に突拍子もなくぷっつりと消えた。


「うわっ…!」

ぼくは突然目が覚めた。…ベッドの上だ。手足が熱い。

「夢か…夢にしては…」

あまりにも生々しすぎた。まるでその場に居合わせたかの様だった。まさしく事故の当事者になった様であの生々しいドライバーの姿が目に残っている。

一呼吸置いて部屋を見回す。電気はついたままだ。やはりそのまま寝てしまったらしい。見ればカーテンが朝日で透けている。小鳥の鳴き声も聞こえる…時計は、朝の五時前。ぼくは再び眠る気にはなれず、そのまま起きる事にした。

窓からは朝早く出勤する父の姿が見えた。ぼくは、まだ眠っている母さんを起こさない様にトーストを焼き、それを食べるといつもより一時間も早く家を出た。

「…行って来ます」

良人は誰に向かう訳でもなくつぶやく。…最もここ数年間、登校を母に見送られた記憶はないのだが。早かろうが遅かろうが…母さんは起きてこない。彼の家庭は、行きも帰りも結局バラバラなのだった。

しかしそんな憂いも、あっという間に吹き飛んでしまった。余った時間に寄ってみた商店街にあったのは、店舗に大きくめり込んだトラック。吐き出される黒煙。慌てふためく人達と現場に駆けつけた警官達。…事故現場。まるで同じだった。夢で見た光景と。

「これは…一体どういう事なんだ!?」

これが全ての始まりだった。これから始まる、ぼくの身に訪れた奇妙な『神隠し』の…。


 その日の学校。教室内は大型トラックの衝突事故の話題でもちきりだった。

「知ってるか?今朝の商店街の交通事故…」

「ああ、すごい騒ぎだったよな…!」

良人は盛り上がるクラスメイト達を尻目に静かに席についていた。彼はどこか、浮かない顔をしている。

「良人も知ってるか!?昨日の事件の事」

「知ってるよ」

良人は返す。そんな事は既に周知の事実とばかりに。

「トラックの運転手が行方不明って事もか!?」

「えっ?」

「実はあの事故の後すぐに警察が来たんだけど、その頃にはもう運転手はいなくなってたんだって!誰も運転手が降りる所を見てないのに」

「でもなあ、運転席には大量の血痕が残ってたんだって。確かに誰かが乗ってたはずなんだけど」

「あれだけの人が見てたのに…誰にも気付かれずに降りたなんて事が考えられるのかな?」

良人がつぶやいた瞬間、始業のチャイムが鳴り響いた。

「やべっ、時間だ!また後でな!」

クラスメイトは大急ぎで自分の席へと戻る。良人は眉唾ものの話だと思いつつも首をかしげていた。そして、今日も学校の授業は始まった。

 放課後のチャイムが鳴り響く。授業が終わってしまえば子供達はただ活動するのみだ。担任が口を開く。

「皆さん、くれぐれも交通事故には気をつけて下さい」

交通事故とは朝の事故を指しているのだろうか。しかしそんな事も彼には関係はない。今日もまた、良人は一人静かに帰宅する。

 時刻は午後八時過ぎ。良人は部屋のベッドで大の字になる。眠い訳ではない。疲れた訳でもない。いつの間にか、こうする事が良人の習慣になっていた。彼が考えるのは交通事故や夢の事ではなかった。いつも考えるのは両親の事だった。

数分前、父が帰宅する車の音を聞いた。父は今日もろくなものがない冷蔵庫の中身を見て朝食の様な簡素な食事を文句も言わずに一人で食べるのだろう。

母は相変わらず茶菓子をつまみながらテレビを見る事に夢中になってばかりだ。きちんととした食事をいつ食べているのかも疑わしい。良人はそれらを思い浮かべ、大きな溜息をつく。これもまた、良人の習慣になっていた事だった。

 良人の両親は仲が悪い訳ではない。喧嘩をした事などは一度もない。ただ、生活時間帯がバラバラで交流がない。ただ、それだけだった。

良人の父、間浩一は悪い男ではない。学歴も悪くはないし大酒飲みでもないし勤務態度は極めて真面目だった。高くはなかったが給料をきっちりと家に納めていた。良くも悪くもそれだけの男であった。

良人の母、間志乃は人当たりが良く、料理も上手で年よりも若く見えると近所でもよく言われていた。しかし少々怠け癖があり、良人が家事の手伝いを始める様になると、良人に家事のほとんどを任せ何もしないようになっていった。彼女は午前から夕方までの間パートに出ていた事もあり、その反動で家事の怠け癖に拍車をかけていた。

それぞれが配偶者や子供に対して無関心な家族。怠ける妻に文句を一つも言わない父さん。無関心な夫に言葉一つもかけない母さん。息子に対しても無関心だ。そして、そんな両親に対して何も言えない自分自身。

「(ぼくは、一体何なんだろう)」

良人はまた一つ、溜息をついた。良人はまた意識が遠くなるのを感じた。

「(ああまたか…いつもこうだ…この事を考えるとすぐに眠くなってしまう…ダメだ…眠っ…ちゃ…)」

気だるい意識に抗う事もできず、良人は眠りに落ちていった。


視界がフラフラと揺れる。

しかし随分低い視界だ。まるで犬の視点だな。

キッチン…ここは、どこかの住宅か?

暗い。部屋には明かりもついていないな。夜か?

次の部屋だ。布団で人が寝ている。やっぱり夜か。

親子三人が一つの布団で一緒に眠っている。

これが親子川の字で寝るってやつか。仲がいいんだな。

そして近づくと、おもむろに前脚を振り上げた。

…前脚?

黒い。暗いせいか?指が四本。指先には鋭い爪。それで何をするつもりだ。

やめろ。

直後、子を挟んで寝ていた両親は爪の餌食になった。

鮮血が布団を赤く染める。

その惨状に、とうとう子供も起きた。

左右を見渡しきょとんとしている。

女の子の顔がアップになる。顔を近づけているんだな。女の子の瞳に、鋭い牙を並べた奇妙な怪物の姿が映る。

獣の口元が、ゆっくりとつり上がる。

目の前の女の子も、ようやく恐怖で顔を歪めに歪めた、


「あああああっ!!!」

良人は以前の様に飛び起きた。また、人が目の前で死ぬ夢を見た。パジャマは汗でグッショリ濡れている。動悸も激しく息も荒い。良人は深呼吸をして、気分を落ち着ける。良人は時計を見る。

「朝の…六時か…」

眠りに落ちたのが昨日の午後八時過ぎ。十時間近く寝ていたのか。

「気分が…悪い…」

良人は転がるようにベッドから降り、床に倒れ伏す。凄まじい疲労感だった。まるで、外に出て全力疾走してきたかの様に。

「夢のせいかな…ひどく暴れたみたいだ」

布団はベッドから落ち、シーツもメチャメチャだ。数分間、吐きそうになる気持ちをこらえながら呼吸を整える。ようやく立てる様になった。良人は一階のリビングへと降りていき、電気をつけて登校の準備をする。

 場所は、良人の家から離れた一つの住宅地の事である。

「おはようございます桑田さん」

「ええ、おはようございます堀井さん」

近所の主婦達が挨拶を交わす。今日の天気や出勤した夫の事など、声を弾ませながら軽く世間話を始める。

「それにしても田中さんのお宅、どうしたのかしら…」

「ええ、もう会社も学校も始まるっていうのに、カーテンも閉まったままで出てこないんだから」

「一家で寝坊?起こしてあげた方がいいかしら…」

…誰も知らない。戸締まりをしたままの住宅、カーテンが覆う寝室では、血痕を残して一家三人が煙のように姿を消していた事を…。


 良人は息荒くも、学校に通うために一人家を出た。

「あれ…?」

良人は二階の自分の部屋を見上げた。

「ぼく、部屋の窓…いつの間に開けたのかな…」

開いた部屋の窓からは、カーテンが風でたなびいていた。


 放課後のチャイムが鳴り響く。昨日の夢から相変わらず体調は最悪だったが、何とか今日の授業を乗り切れた。

「それでは今日はここまで。皆さん、事故などにあわない様気をつけて帰って下さい」

クラスには元気良く教室を飛び出す者が数人いた。それとは対照的に、良人はヨロヨロと力無く机を離れる。

「間くん、今日は体調が優れない様ですが…体は大丈夫ですか?」

「あ、先生…とりあえず大丈夫です」

「ひどいのなら学校を休んでもいいのですよ。君が真面目なのはわかっていますが…」

「はい、帰ったらゆっくり休みます。先生、さよなら…」

心配して声をかけてきた担任の先生に別れを告げて、良人は立ち去った。顔は青い。目にも活気がない。足つきもフラフラだ。良人が心配されるのも無理はない様相だった。

それでも良人は学校に行きたかった理由があった。…正確には、家にいたくなかったという方が正しい。あの家は、自分の家であって自分の家ではない。あの家に自分の心が休まる場所はない。…良人はそう、思っていた。

その家が、いつの間にかもう目の前にあった。

「(この家は、ぼくの居場所じゃない…)」

良人は陰鬱な気持ちでドアのノブに手をかけた。

「!?」

奇妙な感覚だった。目の前の視界全てが歪んでいく様な感覚だ。良人が開いたドアの先には、何も無かった。歪み、うねり、淀んだ世界が視界に広がっていた。見渡す限りテレビの砂嵐の様に白黒にちらつき、風もないのに体が後ろに飛ばされそうな感覚がー…


…ここはどこだろうか。見渡す限り灰色の世界。白や黒が全視界にチラつく。まるで、テレビの砂嵐の世界に入り込んでしまったかの様だ。良人はただ立ち止まってキョロキョロするだけだった。

「何だ、ここは…」

良人は、恐る恐る一歩前に踏み出してみる。…歩ける。入って来たのなら出口はないか。良人は振り返ったが後ろには何もなかった。出入り口がないのなら、本当に世界が変わってしまったのだろうか?どこかから現れた、この『灰色の世界』に。良人はただ立ちすくむばかりだった。

音もない。何もない。障害物も、行き止まりも、出入り口も、世界の際限すら。

「どうなっているんだ…」

汗の一滴も出なかった。こんな馬鹿げた世界が突然自分の現実からすり変わって、一体何をしろというのだろうか。どの位呆然としていただろうか。前方に何か動くものがある様な気がする。心なしか、生き物特有の気配の様な感覚だ。

「ん?」

それはゆっくりと近づいてきた。一歩一歩ゆっくりとゆっくりと、右の前脚。左の前脚。黒い何か。それはあの時、夢で見た黒い怪物の様ではなかったか。

「はは、まさか」

良人は目をこする。そして、再び開いた視界に存在していたのはやっぱり何て事はない、

まぎれもなく眼前に立つ異形の獣の姿だった。

「ア…」

今度のは変な夢だ。ぼくは不覚にも、笑ってしまった…。


四つん這いに構えた獣の姿。ただの獣ではない。大きさは動物の豹ほどであろうか。頭部にはよく見なければわからないほどの小さな目が二つあった。口は犬の様に大きく裂け、唾液のねとつく鋭い牙がびっしりと並び、口からは唾液で光る長い舌が覗いていた。そう、それは僕が映像で何度となく目にしてきた怪物だった。

「うわ……っっ!!!」

ぼくは尻餅をついて後ずさった。目の前に、怪物がいる。驚きも恐怖も、声にならない。夢なんかじゃあない。思考を全て吹き飛ばす肉迫する現実感。こんなものはありえないという小賢しい現実の思考は、目の前の悲しいまでの『現実』にたやすく打ち砕かれた。

「………」

怪物が、ゆっくりと僕に向かって歩いてくる。大きく裂けた口から牙と舌を光らせながら。僕は震えている。目の焦点は怪物以外に合わせられない。全身の筋肉が痙攣して手も足も歯もガクガク。恐怖している。自分の睾丸が縮みあがる感覚がはっきりとわかる。

「う…うぅ……っ」

声にならない。僕は後ずさる事もできなかった。逃げろという脳の命令を肉体が拒否している。恐怖が、肉体を支配している。脳と肉体が切り離された様な感覚。これが、蛇に睨まれた蛙というものなのか。自分の意志で動かせる肉体は、今この瞬間何一つとして存在していなかった。

『………』

怪物がぼくを見ている。ただ見ているだけだ。その視線に大した目的も期待もない。その瞳には何の意思も込められていなかった。そのくせぼくの体は、勝手に縮み上がって動こうともしない。怪物もそんな姿を見て呆れたのだろうか?

『何の因果で上がり込んだのか知らないが、ゆっくりしてけ。お迎えが来るまでな』

怪物はそうだけつぶやくと、頭を垂れて日なたの猫の様にだらけた姿勢になった。もはやぼくに対して何の興味も抱いていない。ぼくの体は未だに動こうとしない。歯が恐怖でガチガチ震えている。

『返事もなしか。最近の子供は礼儀知らずだな』

怪物は呆れた様につぶやく。声からは容易に落胆の意思が見て取れた。ぼくの体は、情けないがやはり動かないし声も出せないのだ。

『フン…今時のお子ちゃまじゃ無理もないか。甘やかされてるもんな。服なんか未だにママに選んで買ってもらってるんだろ?』


−不覚にも、ぼくは、その言葉に反応してしまった−


「うるさいっ!」

自分でも呆れてる。身動き一つできなかったくせに、こんな事で体が反応してしまうなんて。

「何も知らないくせに…っ親の事は、言うなあっ!」

体はいつの間にか直立し、拳を握りしめて歯を食いしばりながら怪物をにらみつけている。本当に呆れてる。
どう考えても、自殺行為だ。

それを怪物が見ている。気味の悪い嘲笑も止めてじっとこちらを見つめている。ぼくは直後に後悔した。怪物の口元がつり上がった。またあの気味の悪い笑いだ。

『クククッ…思ったよりも…根性あるなあ…?』

怪物の瞳に興味の光が宿った。微笑を浮かべながら、怪物はゆっくりと体を起こす。
近づく。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
そして、ぼくの前まであと一歩。

「!?」

その瞬間だった。再び、視界が、世界が歪んでいく。これは、ここに来る前に玄関のドアを開けた時と同じ…!

『チッ。お迎えが来たか』

怪物は残念そうに舌打ちした。直後に、強烈な風の様な何かがぼくの背後から突き抜ける。
ああ、これは!目の前の怪物が、世界が遠ざかってゆく!

『オレの名はメネシス。挨拶なしで入ろうが、土足で上がり込もうが…大歓迎だ。楽しみにしてるぜ。リョウト』

「…なぜ、ぼくの名前を…!?」

世界は消えた。

「!」

ぼくは、開いた玄関のドアの前にたたずんでいた。ぼくはただ呆然としていた。

「良人?何してんのよ」

母さんの声だ。確かに母さんが居間に座っている。時計は…午後四時前。いつもと同じ帰宅時間だ。単なる白昼夢だったのか?ぼくは狐につままれた様な気分でそのまま家に入り、自分の部屋に入っていった。さっきのは何だったのだろうか。とても、夢とは思えない。あのメネシスと名乗った怪物、それがあの夢に出てきた怪物?なぜぼくの名を?

 …何もかも予測がつかない。現実にあり得ない。夢でしか片付けられない。だが…

 ぼくはベッドに寝転がった。この時気がついた。朝からの体調が嘘の様に体が軽い。
あれだけ気分が悪かったのに…あれだけ怖い思いをしたというのに…。


 良人は通学路を歩いていた。一昨日から彼の目覚めは最悪だったが、今朝はすこぶる良好だった。早朝ながら、校庭にはスポーツに励む生徒の姿がある。それを見た瞬間、朝練もないのに朝早く律儀に登校している自分の境遇にふと呆れた。
その理由は…早く学校に行きたいのではなく、早く家から出たいという事にあったのだった。
良人は朝の日差しの中、一人登校していた。

 放課後のチャイムが鳴る。相変わらず今日も何事もなく授業は終わった。

「それではみなさんさようなら。授業参観のお知らせのプリント、保護者の方にきちんと見せるのですよ」

授業参観…良人はその言葉にふと反応した。

「授業参観かよ〜うちの母ちゃん変な服着てこないか心配だよ〜」

「祥子ちゃんのお母さんキレイだからいいよね」

「うちの母ちゃんすごい恐いんだ…」

悲鳴まざりで盛り上がるクラスメイト達の声を尻目に、良人はこそこそと教室を抜け出した。

「良人くんのお母さんって美人だよね!」

「あれ?」

「もう帰っちゃったのかな…」

教室の中にただ一人、良人だけがいなかった。

 良人の足取りは重かった。ふと手提げからプリントを取り出し眺めると、乱暴に手提げにしまい込んだ。

「(どうせ、うちの母さんは…)」

考えると気が重い。横目で路地を眺める。良人は寄り道したい衝動に駆られた。家でなければいい、どこかに…。

「?」

その瞬間だった。路地の隅に何かうごめくものが見える。

黒い何か…それは一瞬こちらを見つめたかと思うと空間が歪み始めた。

「ああっ!こ、これは…!」

昨日の家の玄関と同じ…良人が気付いた時、彼は灰色の世界にいた。


ぼくの前に。怪物がぼくの目の前にやって来る。

『リョウト…早速来てくれたか。オレは嬉しいぜ』

目の前に現れたのは、あの時会ったメネシスと名乗る四本足の怪物だった。ぼくは後ずさりしていた。

「メ、メネシス…!」

『いきなり呼び捨てか。まあ別にいいけどな』

メネシスは奇妙な声で笑うと、ぼくを見つめた。

『で、何しに来たんだ、リョウト?』

「し、知らない…下校時、いきなり…君が呼んだのか?」

『何を言うんだ…。お前から来たんじゃあないか』

「だ…から知らない…いきなりここに連れてこられた」

ぼくは思い出していた。なぜか見る悪夢を。まるでその場に居合わせた様な夢を見て、その夢は実際の事件として起こる。この間のトラック事故。それにこの前見た一家惨殺事件…あれは怪物に殺されたんだ。突然殺された後、こんな風に別の世界に連れて行かれて。だから行方不明で終わっている。その犯人は恐らく目の前にいる、メネシスと名乗る怪物だ。親しげにぼくの名前を呼んでくるのがなお恐ろしい。その気になればいつでも殺せるのに。ぼくは、まな板の上の鯉か。

『何が起こったのかわからんって顔だな?聞いてみろよ…教えてやってもいいんだぜ?』

相変わらず妙に馴れ馴れしい。こいつ、ぼくを見て楽しんでいるのか。不思議と、ぼくの気持ちは『恐ろしい』というよりも『好きになれない』に変わりつつあった。

「それじゃあ教えてよ。ここは何なんだい?」

『ここか?見ての通り、次元の狭間だよ』

「次元の…狭間…?」

『そうだ。お前達の世界じゃない別の世界ってとこか』

「何でぼくがそんな所に連れてこられたんだい?」

『ふうむ…』

メネシスは不意にぼくの目の前まで近づき、ぼくの顔をジッと見つめたと思うと、クンクンと犬の様に臭いをかぎ出した。
次の瞬間、突然長い舌でぼくの頬を嘗めた。

「なっ何をするっんだっ!」

こそばゆさと気味の悪さで、ぼくは妙な声をあげた。

『なるほどな』

「何がだよ!」

『お前には居場所がない』

「………?」

…『居場所がない』…ぼくはその言葉が胸に突き刺さった様な心境になった。

『居場所ってのはものの例えだが…言うならば『座標』や『時間軸』という所かな…』

「何だい、その『座標』っていうのは」

『じゃあ教えてやろうか…。この次元の狭間は、お前達が本来いる世界と壁一枚隔てた程度の距離しかない。まあ…よほど大きな空間の歪みでも発生しない限り、お前達の世界の人間は入って来れない。なぜだと思う?』

「どうしてだい」

『お前達は自分の世界に存在するための『座標』ってのを持っているからさ。お前達の世界に存在する人、動物、植物、果ては物や無機物にだって存在する。つまり、そのものの『存在』が『お前達の世界に固定されている』…こんなとこか?』

「……?よくわからないけど、ぼく達の世界のものはぼく達の世界のものだと決められているから、存在し得ない他の領域には行けない…そういう事かい?」

『そう…それがお前にはない』

何でだろう。落ち着いてきた心臓が…また暴れ出した…。メネシスの言葉が胸をつついている様だ…。

『ないとは言えなくとも、普通の人間より狂っている』

「それは…」

『まあ、普通の人間よりも次元の狭間に迷い込みやすい体質って事だな。逆の例を言うと、オレにはお前達の世界の座標がない。だから、お前達の世界に行く事はできない。ここは、座標のない奴、狂ってる奴しか来れない領域なんだよ』

…ぼく達の世界に来れない?そんな馬鹿な。だったらなぜ、人を襲って引きずりこむなんて事ができるんだ?ぼくは不審の目をメネシスに向けた。メネシスは続ける。

『神隠しってのを知ってるか。人が消える怪現象の事だ。まあそれがお前みたいに次元の狭間に迷い込んだのか、それとも…内側から『何か』に引きずり込まれたのかはわからんけどなあ…クククッ…』

メネシスの口元がつり上がり、笑い声を上げた。

「メネシスッ!やはり君は…ッ!」

ぼくは思わず叫んでいた。それと同時に、世界が歪んでいく。この感覚は…!元の世界に戻る前兆…!

『続きが聞きたかったらまた今度だ。待ってるぜ。似た者同士…仲良く語らおうじゃないか』

「なっ…、どういう意味だ!?」

ぼくの言葉は、声にもならず遠い世界へと引き戻された。


 その翌日、下校した良人は自分の部屋のテレビを眺めていた。ニュースである。

「江須市茂往町にて、一家三人が行方不明となる事件が発生しました。何の前触れもなく就寝前の戸締まりもしたまま、親子三人だけが姿を消しました。なお、寝室の布団には親子三人のものと見られる血痕が発見され、事件の謎を深め…」

良人はテレビのスイッチを切った。

「…『神隠し事件』…か…」

先ほどの怪事件につけられた俗称である。だが自分だけは真実を知っている。あれは、次元の狭間からやって来た怪物に殺されたんだ。そんな事、誰も知りはしないだろうが…良人はそう考えていた。しかし、腑に落ちない点が一つあった。

「なぜぼくは…殺害現場の夢なんて見るんだ…!?」

まさかあれは予知夢という奴なのか。

『お前には居場所がない』

昨日のメネシスの言葉がふと頭をよぎる。彼が言うには、良人にはこの世界に存在するための『座標』が狂っているという。それ故に次元の狭間に迷い込みやすいのだと…良人はうなだれていた。自分は普通ではないのか?どこかおかしいのか?そんな不安に覆われていた。

「そうだ…いい加減に…プリントを見せないと…」

良人は机の片隅に置いたプリントを見やった。
良人はそれを手に取ると階下の母親の下に降りていった。
たかが一回の階段が、この上なく遠く重苦しく感じた。

 志乃は渡されたプリントを手に取ると、口を開いた。

「良人はきちんとやってるから、別に授業参観には行かなくても大丈夫よね」

…その言い草は何だ。きちんとやってるから?なぜぼくがそうしなくてはならないのか、考えた事があるのか?

良人の心の中ではそんな思いが駆け巡っていた。

「大体五年生にもなって授業参観もないでしょ。その日はパートもあるし欠席でいいわね」

…そう、母さんはぼくの事なんて、気にならないんだね。

良人は思わず笑いそうになった。

「それじゃあこのプリント、書いておくから…あれ?」

もう既に、良人は志乃の前にはいなかった。良人は自分の部屋へと戻ると、大きく一つ息をついた。

「そうなんだ…母さんはいつだってそうなんだ!」

良人は机に拳を叩きつけた。皮がむけて血が出ている。
良人は二ヶ月前の誕生日の事を思い出していた。
九月、十一歳の誕生日の時だった。良人が帰宅した時、テーブルには一万円札と『これで好きな物を買いなさい』という書き置きがあっただけだった。

「それだけじゃない!去年、十歳の誕生日の時もそうだった!同じだった!父さんも残業で帰ってこなかった!ぼくは小遣いなんかが欲しかったんじゃない!」

良人は倒れ込む様に、乱暴にベッドへ仰向けに寝そべった。

「ぼくって、手のかからない立派な子供だなぁ!」

笑いながらつぶやいた。その直後に、ベッドのシーツに一粒の滴がこぼれ落ちた。
そしてそのまま−眠りについた。


揺れる。揺れる。

真っ暗な視界が揺れる。

ああ、また、あの怪物が人を殺す夢を見ているんだな。

部屋の中を練り歩いて行く。

ドアは静かに、開ける。

音は立てずにゆっくりと。

しかし、今日の家は随分見慣れた間取りだ…

この扉だ。この扉の奥に…獲物がいる。

ああ、踏み込むぞ。

この爪で、あのベッドに寝ている女を…

ベッドに寝ている女?

待てよ?この女性は…


「良人…何やってるんだ?」

「!」

父さんの声だ。父さんが帰ってきたのか…ぼくは何を?次の瞬間薄明かりで見たのは、寝室で眠るぼくの母親の顔だった。そしてぼくの両手が母さんの首に伸びている。

「良人…?」

「あっ、ああっ…」

ぼくは父さんの言葉も耳に届かずに、逃げる様に足音を響かせながら寝室を飛び出した。

 ぼくは部屋に戻ると、ドアに鍵をかけ部屋の片隅に膝を抱えてうずくまっていた。

「メネシスの言ってた事は…こういう事だったのか?」

『似たもの同士』…次元の怪物メネシスは自分をこう評した。だとすればぼくは、この世界の居場所を持たないバケモノで。今まで罪もない人を四人も殺していたと。そう考えれば納得はいく。なぜ実際に起こる人を殺す怪物の夢などを見るのか。夢なんかじゃあなくて。実際に自分がやっていた事だったとすれば。

「ぼくは…化け物か?」

ぼくは自分の手を見てつぶやいた。この手や体が。見るもおぞましい怪物に変貌して人を襲うのか。

「一人に、なりたい…どこかに、消えたい…」

膝を抱え。何もない空間を見つめ。何も映らない瞳で。ぼくは部屋に一人たたずんでいた。

「不思議だな…何もないや…」

ぼくはつぶやいた後に突如我に返った。本当に、何もない世界が広がっている。またしても、次元の狭間に迷い込んでしまったのか!そしてぼくは、すぐに自分を貫く様な鋭い視線と殺気を感じた。

「何かがいる…」

黒く暗い、目の前の方向に何かがいる。近づいている。

「メネシスじゃあない…こいつは…!」

徐々に姿を現すそいつに、むき出しの殺気をぼくにぶつけるそいつに、ぼくは腰を抜かしてしまった。


 突如、良人を『神隠し』が襲った。次元の狭間に迷い込んでしまった彼は、そこに棲む恐ろしい怪物の縄張りに入り込んでしまったのだ。

『貴様カッ!俺ノ縄張リニ無断デ入リ込ンダノハッ!』

そこに現れたのは、メネシスとは違う、次元の怪物だった。岩の様な頭部。大型肉食獣を思わせる力強い四肢。獅子の様な鋭い眼光、そして無数の牙。それが、良人の目前に敵意をむき出しにして立ちはだかる。

「たす…助けて…ま、迷い込んだ、だ、けなんです…!」

喉が痙攣している。これだけ言うのが精一杯だった。

『駄目ダナ…誰ダロウト俺ノ縄張リニ侵入シタ奴ハ許サン!小僧、死ネッ!』

怪物は良人に飛びかかった。良人は、怪物の爪という確実なる死を認識しながらも全く身動きが、できなかった。

「(し…ぬ…?)」

目の前に、ゆっくりと怪物の爪が拡大していく。この爪が自分の頭を砕くのに、刹那。

しかしその瞬間、良人の体は凄まじい勢いで後ろへと吹っ飛んでいった。寸前の所で、怪物の爪は良人の額をかすめるにとどまった。

「うわあっ!」

良人の血が宙を漂う。ほんの一瞬遅れただけでも、良人の頭は粘土の様に崩れていただろう。

『貴様ッ!』

怪物が吼える。その目は良人など見ていない。良人が見たその視線の先にいたのは…。

「メネシスっ!?」

それは過去二度、次元の狭間で出会ったメネシスだった。

『トゥール、オレの友達を勝手に殺してくれるなよ…』

『メネシスッ!ナゼ貴様ガッ!』

メネシスは長い舌を垂らしながら、良人に振り向いた。

「リョウト、とんでもねえ奴の所に来ちまったなあ。間一髪駆けつけてこれたか…感謝しろよ?」

「あっ、ああっ…ううん…」

良人はただ口をぱくぱくさせながら首を上下に振るのみだった。

『こいつはな、トゥールっていって自分の縄張りに入った奴は問答無用で襲いかかる奴でなあ、オレも以前…』

「メネシスっ、危ない!」

トゥールはメネシスに飛びかかっていた。メネシスは回避する間もなく、左の前脚に噛み付かれた。

『ガァッ!』

ミシミシと骨のきしむ嫌な音が響く。トゥールが跳躍した直後、メネシスの左前脚は噛みちぎられてしまった。

「メネシスっ!」

左前脚を失い、赤い血液を飛散させながら仰向けに倒れるメネシス。当然、トゥールがその隙を見逃すはずがない。あらわになった腹部に食らいつこうと更なる攻撃の体勢に移る。

「………っ!?」

良人はその瞬間、妙な違和感を感じた。トゥールの周囲の空間に。何も見えもせず音もしないが、何かが、何かがおかしい。次の瞬間だった。トゥールの全身が無数の裂傷に襲われ、四本の足は切断されて宙を舞った。

『グワバアアァァアアァァッッッ!』

自らが作り出した血だまりに沈むトゥール。そしてそれを呆然と眺める良人と冷静に見つめるメネシス。

「リョウト、逃げるぜ。遠くへ、飛ぶ」

メネシスは良人の襟を口で引っ張ると、跳躍した。
不思議な事に、その跳躍は天に舞った様に軽く、地面が遠く感じていた。
その一回の跳躍だけで、トゥールから遠く離れた場所へと移動した。

 次元の狭間の地面…と言うべきものに良人はへたりこんで、荒い息を吐いていた。

「メネシス…一体君は何をやったんだ…?」

『ありがとうの一言も言わないのか?』

「あっ、ああ…あり、がとう…」

『それでいい』

メネシスの口の端がつり上がった様だった。

『あいつの周りの空間を、『裂いて』やった』

「空間を…『裂いた』だって…?」

『オレ達次元の狭間に棲む連中は、空間に干渉する事ができる。あいつの体を空間ごと裂いてやったから、体が裂けたって事だ。あいつには力じゃかなわないからな、後は空間を『跳び越えて』おさらばさせてもらった』

メネシスは得意顔だった。

『しかしお前も厄介な奴の所に行ったもんだなあ。オレの所に来ればいいものを』

「そんな事言われても…好きで行ったんじゃあないよ」

『バカな。余程大きな次元の歪みが発生しない限り、次元の狭間は行こうと思わなきゃ行けないんだぜ』

「行こうと…思わなきゃ?」

良人の頭には、次元の狭間に迷い込む前に考えていた事が頭をよぎった。

「(どこかに逃げたいなんて…考えていたから…?)」

『何か心当たりあるって顔だな?』

良人はメネシスに声をかけられて我に返った。

「そうだ、メネシス!君は前脚を!」

良人はメネシスの噛みちぎられた左前脚を見やった。

「………?」

メネシスの欠損したはずの左前脚は、確かにメネシスの体に存在していた。以前より少し小振りではあるが。

『再生したのさ。この次元の狭間全体に漏れている空間エネルギーでな』

「…どういう事だい…」

『オレ達の様な次元の狭間に棲む存在…そう、お前達の世界の座標を持たない存在は、この空間にいるだけでエネルギーを摂取できる。傷だってすぐに治るし、腹も空かない。ここにいる限り、食う必要も寝る必要も、死ぬ心配だってないんだよ』

「じゃあもしかしてさっきのトゥールも?」

『そうだ…この次元の狭間にいる限り死ぬ事はない』

「生活の一切の心配がいらないのか…それはすごい…」

刹那、メネシスの目つきが少し変わった様だった。

『ああそうだ…しかし、そんな環境が人の心に一体何をもたらすと思う…?』

「えっ…?」

良人はメネシスを見て首をかしげた。その直後、メネシスは舌打ちした。

『チッ…。もう終わりか…だいぶ伸びてきたが…またしばらくお別れだな』

「えっ?ああっ?」

視界が、世界が歪んでいく。これは、良人が元の世界に戻る前兆だった。

『じゃあな。また会おうぜ…』

「待って、メネシス!なぜ君はぼくを助け…?」

答えを聞く前に、良人は元の世界である自分の部屋に戻っていた。既に夜は明け、空が白んできている。それは、良人が次元の狭間に行き来する事が昼と夜の入れ替わりと同じである事を象徴しているかの様だった。

抜き差しならない生命危機の事態に陥ってしまったせいか、良人は次元の狭間に迷い込む前の苦悩を忘れてしまっていた様だった。いや…忘れてしまうほど気分が晴れたとでも言うのだろうか。良人は不思議と元気に満ちあふれていた。

「あれ?どこか…怪我してた様な気がするんだけど…」

良人の額の傷は、いつの間にか跡形もなく消えていた。


 今日はいい天気だった。良人のクラスでの席は窓際の日なたに面している。行われている授業もそこそこに良人は考えていた。

「(次元の怪物はメネシスだけじゃあなかった…だとすれば神隠し事件の犯人は彼じゃないのかも知れない)」

良人は、体験する神隠し事件の真相について考える。

「(一体、なぜぼくは事件を体験するんだ…?)」

チャイムの音が鳴り響く。その音に良人は我に返った。

「今日の授業はここまでです。次は掃除ですよ」

良人は席を立ち、掃除場所である昇降口へと向かった。

「来週だよな、授業参観」

二人の同級生が会話を交わしている。授業参観。

「(…ぼくには関係ない事だ…)」

良人はそう思いながら、下駄箱の掃除をしていた。途端に昨日の夜の事が思い出される。母の冷たい言葉を思い出すと同時に、両親への不満もまた頭をもたげてきた。

「!」

その瞬間だった。突然、頭の中に映像が流れ込んできた。暗い路地。…ゴミ袋の山。うごめく小さな虫達。突然、景色ががらりと変わった。目の前に車のシート。さらに前には車を運転するドライバーが。ここは、運転中の車の後部座席か。黒い異形の手がドライバーへと伸びる。…その腕は、メネシスの腕に似ていた。

「(今のはまさか?しかし、真っ昼間に何で突然!?)」

振り向いた拍子に恐怖で顔を引きつらせるドライバー。パニックになり、運転は大きく乱れ始めた。

「(…まさか!?確かあの道路は、学校からそう遠くない場所だったはずだ!)」

反射的に、良人は上履きのまま昇降口を駆け出していた。


 息が荒い。何をやっているのか、良人は自分でも訳が分からなかった。一体何を確かめようと言うのか。

「あの車があのまま行けばこの道路を通るはずだ!」

良人は目標の道路にたどり着いた。数百メートル先に、猛スピードで暴走する車が見えた。あれが神隠し事件の犯人に襲われた車だ。周囲の車に接触しつつ、走行を続けている。その光景に慌てふためく歩行者達。大きな音を立てて進行コースの障害物を跳ね飛ばし、暴走する。

「(確かめるんだ!犯人を、真実を!)」

良人は息を切らしながら走っている最中、一つの考えに到達していた。自分が神隠し事件を体験するのは、決まって家庭や両親に対して不満や憎しみを抱いた時。事件の犯人である怪物とは、自分と何か関係があるのだ、と。

その瞬間だった。

「(あれは…父さん!?なぜここに!?)」

歩行者の中には良人の父、間浩一の姿があった。浩一へと迫る暴走車。距離、既に数十メートル。その速度、ゆうに百キロは超えている。激突は必至だった。

「父さぁーん!」

良人は思わず駆け出していた。しかし、浩一までの距離は百メートル以上。間に合うはずもなかった。

『(オレ達次元の狭間に棲む連中は、空間に干渉する事ができる…)』

不意にメネシスのかつての言葉が頭をよぎった、その瞬間だった。地を蹴った良人の重さが消えた。いや、重さだけではない。全ての存在が一瞬、この世から消滅したかの様だった。

「良人…っ!?」

浩一は我が目を疑った。良人は、次の瞬間、浩一の目の前へと距離を超えて移動していたのだった。

「………っ!」

良人は無我夢中の勢いで浩一の体を横へと突き飛ばし、自分もまた地面を転がった。その直後、暴走車がかつて浩一のいた場所を突き抜けた。暴走車はそのまま電柱へとぶつかり、轟音とともに悲惨なほどに車体をひしゃげさせた。

「父…さん…!」

良人は地面に体を叩きつけ、うつぶせになった状態で浩一を呼んだ。体が痛い。手足がいくらか擦りむいている。

「良人っ!」

体勢をよろめかせながら浩一は良人へと駆け寄る。浩一もまた体を痛めたが、無事だった様だ。良人はほっと息をついた。そして、電柱に激突した車を見やる。

車が黒い煙を吹いている。嫌な油の臭いが漂う。そんなさなか、ひしゃげた車内をうごめく存在を目にした。

「………ッ…!」

それは、黒い怪物だった。四本足の異形…黒い獣の姿をしていた。そいつは、血まみれのドライバーの首筋に食らいついたままで、こちらに細い眼光を向けた。

「(違う…似てるけどメネシスじゃない…トゥールでもない!こいつは…!?)」

良人は未だ見ぬ異形の存在に狼狽するばかりだった。それを知ってか、怪物はニヤリと笑った直後に消える様に姿を消した。事故車からたちのぼる黒煙と臭いだけが、辺りを包んでいた。

突然訪れた神隠し事件、次元の怪物達の出現、そして

次々と自分に訪れる怪現象。良人は今はただ、困惑する事しかできなかった…。

(カミカクシ 前編 完)

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